性格を熟知した夫のスパルタ?サポートで乗り越えられた 会社事務員 松下さんの場合

 2017年2月の深夜、脳出血で倒れました。とても寒い日で、お風呂に入った瞬間にばたっと倒れて、そのままものが言えなくなりました。私と主人はよく飲みに行っていて、倒れた日も二人で飲んで帰って来たところでした。なので主人は始め「アル中や」と思ったそうですが、私がしゃべらず嘔吐していたので、これはヤバイ……と思ったそうです。
 すぐに、急性期病院に運ばれて、脳の開頭出術を受けました。朝の5時から始まり10時前までかかったようです。後遺症で右麻痺と失語症、高次脳機能障害が残りました。看護師さんに何度注意されても、勝手に起き上がろうとして、面会に来た主人にもよく怒られたんです。でも、そのこともすぐに忘れちゃうんですよ。その病院で1か月入院して、そのあと回復期病院に移りました。主人の友人の子どもや知り合いに理学療法士が3人いたので、「いい病院知らんか?」って聞いて探し出してきたようです。そこでは、5か月ほどみっちりリハビリしてもらいました。主人も毎日来て「廊下歩くで~」「がんばれや! 寝てる時もやれや~」ってはっぱかけられまして。うちの主人は塾の先生とかしてたので、口うるさいんですわ(笑)でも「嫁の身体の片方が動かないなら、僕がその動かない片方になったらいいんや」と覚悟していたようで、自宅に帰る前にいろいろ準備してくれました。
 自宅に帰ってからは、近くの通所リハビリに通い、そのあと訪問リハビリとデイケアに変わりました。だんだん自宅でできることが増えてきたので、回復期病院にいる時に、作業療法士さんが紹介してくれた障害者職業訓練校に通う段取りをしました。その矢先に、自宅でこけたんです。掃除をするときに振り向きざまに転倒です。大腿骨を骨折して、また手術、入院になりました。
 回復期病院にいる時は、あまり気がつかなかったのですが、高次脳機能障害があったんですね。失語症はことばがでえへんから、あ~そうかなって分かりましたが、高次脳機能障害はぴんと来てなかったです。自宅で生活していても、何かを同時にすることができませんし、段取りも悪かったりします。話をするときも、あれ? なんだっけ? と自分のことなのに忘れちゃったり。主人からも話の流れがよく分からんと言われます。
 次の年に訓練校に入学したのですが、まあ、何を言われても理解が難しいし、頭が疲れるし、作業も遅くて、全然ついていけなかったです。説明のあと「はい、始めてください」と言われても一人ぽかんとしていました。周りの人はみんな分かってるし、作業もできるのです。なぜできないのか分からなくて、主人とパソコンを持って行って、西村先生に作業を見てもらったことがあります。あの1年間は、とにかく必死でした。「あの先生、腹立つ!」とか思う暇もないくらい、もう必死でした。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

 失語症の多くは左脳の損傷によって起こる。そして多くの人の利き手側である右の麻痺を伴うことが多い。何重にも苦労すると、常々思う。そもそも言葉が話せない、聞いても分からないというだけでも大変なのに、利き手も使いにくいのだ。非利き手側である左手で、鉛筆を持ち、歯磨きをする。そうした身のまわりのことがとても難しくなる。スマホやパソコンで文字を打とうとしても、言葉が浮かばないだけでなく、浮かんだとしても入...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

 仁美さんのケースを前に、ずっとモヤモヤしていた疑問の一つの答えが明確に見えた気がしました。それは、当事者支援の基礎の基礎でもある「スモールステップ」、小さな課題から少しずつ挑戦を深めていくことの是非です。これまでのヒアリングでは、スモールステップで理想的な支援を受けながらも、実際に復職したら絶望的な不自由にぶち当たったケースや、支援に恵まれない中いきなり大きな課題に挑んで苛酷な失敗をしたことが、...


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インタビュー記事

保育士から事務職のプロへ

失語症や高次脳機能障害の当事者の復職には、病前のパーソナリティもまた大きく関わってきます。
「私は働くこと、実際あまり好きではないと思います。もう、家でじっとしているのが好きだって自分では思っています。でもなぜか、ずっと働いてきました」
 そう満面の笑みで話す松下仁美さん。二十歳から四十年弱、その間に失語症と高次脳機能障害を抱えつつもほぼ絶え間なく仕事を続けてきた彼女を支えたパーソナリティは、「新規課題への挑戦心」、そして「負けん気の強さ」を柱とするものでした。

「二十歳で女子短大を卒業した後、保育園で25歳まで働いていました。そうですね。子どもに関わるお仕事、好きでした。得意分野はみんなに元気を与える感じで接すること!」
 失語症という症状名からは想像できないほどの笑みと、張りのある明るい声で、常に笑いを交えて話す松下仁美さん。結婚を機にパートタイムの保母さんに仕事を移しながらも、合わせて10年間もの間子どもに接する仕事を継続しました。腰を痛めたことを契機に、それまで全く未経験だったエレクトロニクスメーカーの事務職に転業した後は、持ち前のチャレンジングマインドをふるった模様です。
「やっぱり周りも子どもから大人ばかりになって、不安は正直ありました。でもそれプラス『やってみよう!』という気持ちも半々ぐらい。新しい仕事に挑戦するのは好きなんですよね。『これをやってみてください』って言われてみれば、ちょっとやってみようか! っていう意欲が湧いてくるところがあるので。第三者から見るとこう、どんなことでも与えられれば覚えてやっちゃえるタイプに見えると、そう言ってもらうことが多かったです。」
 ちなみに今回のヒアリングは、仁美さんが17歳で知り合って25歳の時に結婚したお連れ合いの松下兄(けい)さんもご同席いただきましたが、兄さんの評価では「とにかくきちっと仕事をするのがとても得意な人」とのこと。
 勤めたメーカーは、タッチパネル等のHMI機器を主力商品とした企業で、仁美さんが担当したのは発注部門の事務だったといいますが、11年この現場で働く中、仁美さんは製造ラインで足りなくなった部品を、色々な会社に無理を言って交渉して至急調達したり、海外の部署とも交渉したりと、単にオペレーター的な事務の職域を超えて活躍の幅を広げたといいます。
「初めの五年、部品受注の部門にいたことがうまい具合に下積みになったのかも知れないですね。その後開発部に移ったんですが、逆に受注発注のことなんか、開発部の皆さんは知らなかったんで、とても重宝がられたんだと思います。これが割と面白かったので、もっともっと深いところまで入って働けるようになったらなって思っていました」
 もちろん、その道のプロが居並ぶ現場、持ち前の負けん気で現場に食い込んだ結果、仁美さんは、場面によっては開発部にアドバイスも出せるような、文字通り「受注発注のエキスパート」になっていきました。
 残念ながらこのメーカーは仁美さんの通勤エリアの外に拠点移動したことと年齢を理由に退職するも、引き続き事務職として転職したのは、東証プライム市場に上場もしている電子機器メーカー。仁美さんが倒れられたのは、こうして二社目のメーカーに勤めていた最中のことだったのでした。

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