二人三脚体制でできること 写真家 高木さんの場合

 父親が製造会社をしていたんですね。そこで、大学を出たあとは、他の会社に入社し、5年後に父親の会社に戻り、一営業マンとして働きました。40歳前かな、バブル後どんどん会社が傾いている時に、父親の会社を継ぎました。敗戦処理といいますか、精神的につらかったですね。リーマンショックのあとは、事業を縮小しましたね。すこしずつ社員が減って、家族と外注先だけになりました。こうした経験があるので、今、経営しているスタジオドッグランも、トリミングサロンも、私と妻、あとは契約のトリマーとアルバイトだけで店を回しています。この人数で回るような仕組みを考えたんです。父の会社を継いだ直後、出張撮影を開始、その後スタジオ開業です。自営業なんて、あれもこれもしなくてはいけないので、忙しかったですね。生活も不摂生で、体重は今より20キロ多かったし、血糖値も血圧もとんでもない数値でした。糖尿病もこのままいくと失明という段階でした。健康診断もないじゃないですか、自営ですから。指摘されてもあまり気にとめてなかったです。
 52歳の時に脳出血になりました。軽い頭痛が30分ほどあったのですが、いきなり文字が読めなくなりました。よく「いきなり外国に放り込まれた」と言いますが、私の場合、話をしたり聞いたりは問題がなかったのですが、文字が一切読めなくなったんですね。何が起こっているのかわからなくて、友達に電話で「文字が読めなくなったよ~」と愚痴っていたんです。彼が昔、救急にかかわっていたので、これは一刻も争うと救急車を手配してくれました。意識はあって救急隊の人とも話をしていました。搬入先の病院で検査したら、左脳に3センチほどの脳出血で、「早く家族を呼べ」と言われました。
 私の場合、麻痺はほとんどなくて。でも、文字が読めないだけでなく、書けなかったですね。数字も難しく、計算もできなかったですね。言語聴覚士さんとは読み書きの練習をして、作業療法士さんとは、PCで伝票を入力したり、事務作業みたいなことをしていました。医師からは、運転がダメと言われたので、ドライブシュミレーターでリハビリをやりたかったです。退院してからは8割くらい仕事のパフォーマンスが下がりました。例えば、日曜大工をしようにも、そもそも工具が探せないんですよね。お店でも複数のお客さんに対応することも難しくなっています。こういう説明はほとんど受けていなくて、この数か月、「風神雷神」のYouTubeをみて、あ! 自分にも当てはまるって、そこから高次脳機能障害について学びました。入院中に、この障害について教えてもらうとか、どういう工夫をしたらいいのかなど、リハビリというかケアですね、そういうのがあればよかったなと思います。良かったのは、糖尿病についてのことです。教育のカリキュラムが非常にしっかりしていて、「このままでは死ぬよ」と脅されてですね、結果、体重が20キロ落ちました。今でも食事制限は自分に合った方法で継続しています。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

高次脳機能障害は、孤独病。NPО法人活動を始めてすぐ、この言葉を聞きました。これは二次障害を表現している秀逸な言葉だと思います。何が困っていますか? と聞くと、患者さんは、様々な「できなくなった」エピソードを語られますが、最後に出てくる言葉が「孤立しています」「孤独です」です。高木さんは、読み書きが難しくなった、様々な業務がこれまで通りにできない、そうした高次脳機能障害による困りごとを話したあと「...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

実は高木さんとは今回のヒアリングに先駆けて、能登半島の千里浜で直接お会いした経緯があります。高木さんと聴き手の僕は共に十代からオートバイに乗り続けているライダーであり、その日は太平洋岸の日の出とともに出発して日没までに指定ポイントをクリアしつつ日本海沿岸の千里浜にゴールする『SSTR』というラリーイベントにふたりともが参加、ゴール後に邂逅したという次第です。高木さんは学生時代に挑戦したバイク日本一...


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インタビュー記事

異例の業務転換で成功を収めた二代目経営者

家族写真と同じ位置づけで撮影する「愛犬写真」。大切な家族の一員である愛犬の、愛らしい表情や躍動感の瞬間を、信じられないほど完璧に写し取る。そんな写真家が、高木さんです。けれど高木さんがこうして職業写真家として活躍するようになるまでは、永い紆余曲折の時がありました。
「父親が電気制御盤の設計製作や据え付けとメンテナンスまでやる会社を経営していたんですね。それで高校の卒業時には写真学校に進みたいって言いだしたんですけど、親は聞いてもいないって感じで、なし崩し的に父親の跡を継ぐという流れではあったんです」
経営者家庭にありがちな後継者の縛りの中から、高木さんの職業人生は始まりました。大学時代には写真家に師事して経験を積みつつも、卒業後は実家の工場と同業種に就職。合計で五年間、二社を経験したのちに、実家の会社に入ることになったといいます。
「ただ、好きな仕事ではなかったけれど、現実的な選択だったと今になっては思うんです。生きていく食べていくという前提があっての仕事ですし。それに学生の時代からいつかはカメラで稼げればいいと思っていたけれど、学生時代から二十代にわたって現実を知るうちに、カメラマンだけで食うってこと自体が、現実離れしたものに感じるようにもなっていましたしね」
ということで会社を継ぐも、時代はバブル崩壊後。中小製造業の構造的不況が嵐のように吹きすさぶ中、代替わりの時点で5人ほどだった従業員も一人減りふたり減りしていき、最終的にリーマンショックがとどめとなって、受け継いだ事業は閉じることとなりました。
とはいえ実は高木さん、こうして斜陽していく会社と並行して、社内起業という形で愛犬写真のスタジオ業務を開始し、写真家としてのキャリアも着実に積んできていました。
先代のお父様を事故で亡くされたのは2004年といいますが、自社工場の敷地一角にスタジオとドッグカフェを構えたのは、その翌年のこと。それまでも無店舗で撮影の業務は続け、お仕事上での成功体験を重ねてきたのだといいます。
それにしても驚くような大転身です。受け継いだ事業を閉じつつ、愛犬写真スタジオとして段階的に既存事業の縮小や法人格の改名をしていった形にはなりますが、現在高木さんが経営する『スタジオドッグラン』のコンセプトは、「愛犬家のための会員制総合施設」。
名古屋市南区の都市高速沿いに、どんと構えられた三階建て建屋には、写真スタジオ、ドッグカフェ、室内ドッグランや屋上ドッグランにトリミングサロンまでもが入る、文字通りの総合施設になっています。元々これが電気制御盤関連の工場だったとは、到底想像もつきません。
「その後の改装工事も一回ではなく、段階的にやって来てますからね。17年で4回改装工事をやって、トータルで6千万円ぐらい投資してるんじゃないかな。当時は商工会議所の無料の開業セミナーに通ったり、オープン当初は、当時の小泉首相の肝いりだったドリームゲートっていう政府事業とかがあって、企業支援でなくて起業家支援ということで、色々な専門家への相談を無料で受けさせてもらえるような仕組みがあったものですから。そのあたりかなり使い倒していましたね」
当時ですでに奥様もふたりのお子様もいる中で、全くの他業種への大きな舵切りに「よくここまで思い切りましたね」と専門家から言われることもあるそうですが、
「家族がいる中でどうやって生き抜いていこうかと真剣に考えた結果ですね。ひとつには、好きなことでしか頑張れないということを思っていました。父の会社を継いで仕事をする中で、頑張った結果に人に喜んでもらえないとか、会社に数字を残せないっていう経験がいっぱいあったものですから。そして私の能力で、何ができるのか。無店舗の時代からそういうことを考えつつ、経験値をあげていった結果に今の結果になったというつもりです」
こうして、二代目経営者として異例の業務転換と若いころからの夢の実現を両立していく中、高木さんは52歳で、脳出血に倒れられました。
残った高次脳機能障害は、失書や失読。ありとあらゆる文字を読むことができない、書くことができない、学生時代に吹奏楽をやって親しんでいたはずの楽譜すら読めないという障害。加えて注意や記憶、遂行機能の障害に加えて情動のコントロールと、多岐にわたる不自由でした。

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