人には仕事が必要だ NPO法人いちいちまる常勤 比嘉さんの場合

学校を出てすぐに車屋さんに就職しました。ちょうど1年くらいかな、5月に事故ったんで。23歳でした。友達と出かけて、僕だけ単車だったんですわ。あいつ帰ってこないなって、大騒ぎになりました。高架から落ちたみたいです。誰かが運んでくれたらしい。おかん(母親)とか友達は、事故の様子を知ってると思うけど、あんま、しゃべったことがないんですわ。診断は、外傷性脳損傷、びまん性軸索損傷です。
 救命センターのあとに、脳外科のある急性期病院に行ってから、有名なリハビリ病院に転院しました。当時は、ほぼベッドの上の生活で、良くて車いす。車いすも誰かに押してもらうって感じでした。入院中は、親とか彼女とか、誰かしら付き添ってました。ほとんど覚えてないんですが、デイルームで立たされていたというか(笑)自主練ですね、それだけ覚えています。
 そこから実家に戻って、自分で少しずつできることを増やしていった感じですかね。リハビリの人は自宅には来てなかったかな。そのあと、更正療育センターに入りました。当時は、退所後の生活のめどが立つまでは、長いこと置いてくれたんです。入所して少し経った頃に、リハビリ病院の時に一緒やったやつが入ってきました。そいつもバイク事故でね。仲良かったというか、楽しかったですね。センターでは、時間割が決まっていて、その人に合わせてやることが決められてね。朝の時間だけ、僕ら高次脳機能障害のもんだけが集まるんです。新聞で日付けを確認して、気になったニュースについて話すんです。これが、むっちゃ助かったというか、同じ高次脳機能障害者同士で「あ~、こいつも僕とおんなじやんか」って思うことがたくさんあってね。ここで僕は、自分が高次脳機能障害やってことが分かったんです。高次脳機能障害については、病院で説明があったかもしれないけど、僕はそんなん覚えてない。麻痺の人とか見ても「ちょっと僕はちゃうな~」って思ってたんで。同じ障害のやつに出会えたってことが、良かったです。同じ障害の人がいるって、こんなに心強いんかって思いましたね。
 その後、ケースワーカーやリハビリの人とかの間で「こいつ、もう行けるんちゃうか」って話があったみたいで、退所の日が決まって、自宅に戻りました。そこからB型就労継続支援事業所と、ST(言語聴覚士)の外来に通ってました。STさんに、「いつか一人暮らしがしたい」って話してました。そのうち、社会福祉法人やったかな、そこで障害者の相談員の仕事を募集しているからどうかって言われて。そこに、二、三年はおったかな。そのとき、自宅のそばで、一人暮らしを始めました。そうこうしているうちに、スタッフの一人がNPО法人を立ち上げるって聞いて、ついて行ったんです。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

言語聴覚士として、失語症や高次脳機能障害の人にどう関わっていきたいですか? と聞かれることがよくあります。私は毎回「自分の障害を理解すること、そして、自分が伝えたいことを相手に伝えられるように、言語能力を改善すること。ご本人が発言力を高めていくことを大事にしています。なぜなら、この3つが、本人のエンパワメントにつながるだけでなく、当事者発信により、医療・福祉の支援を変えるきっかけになる可能性が高い...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

傾聴=「一方的に聴いてもらうことで楽になる」ことの効果とその波及範囲の大きさについては、僕自身が高次脳機能障害の当事者となったのちに「健常者時代の誤解」を痛感したことの一つです。

まず、脳の情報処理速度が遅いことや、適切な言葉がなかなか出てこないことなどの特性を持つ当事者にとっては「遮らずに聞いてもらう」だけでも、とてつもなくありがたい。また、何か疑義を返された時に、相手...


Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/plfrxfcmolnp/noucare.jp/public_html/wp-content/themes/noucare_v1/single-interview.php on line 332

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/plfrxfcmolnp/noucare.jp/public_html/wp-content/themes/noucare_v1/single-interview.php on line 332

インタビュー記事

自分だけ、何か違う患者

 二輪車による単独事故、それも、路面電車をまたぐ高架橋の上から下まで落下するという、大事故……。比嘉さんもまた、本冊子で何回か登場した「生きていただけでも奇跡」というタイプの当事者です。受傷時は23歳、駆けだしたばかりだった職業人生の行き先を閉ざされてしまいました。
「事故の前の仕事は、ディーラーの整備工場での自動車整備だったんです。専門学校で二級整備士の資格を取って、仕事について一年目の事故でした」
 当然、後遺障害の重さは復職云々とぃうレベルではありませんし、ご本人にも受傷時からかなり長期間にわたって明確な記憶はありません。急性期・回復期病棟を経て、その後一時退院を経て、地域の厚生療育センターへと入所しますが、病棟生活ではご自身の高次脳機能障害を意識することもなかったと言います。
「自分にどんな障害があるかとか、当時はそういうのを思わず、ぼーっとしてたらええわという感じ。親や彼女や病院がしっかり見ててくれるし、ご飯が終わってリハビリとかでもしっかり時間時間で先生が呼びに来てくれるわけやし、困ることがないんです。逆に、周りは片麻痺で大変な人が多くて、僕は別に全身動くし、ただバランス悪くて立ってられないんで普段は車いすなんだけど、なんでこの中に俺だけ居るんや? って感じることは年中でした」

りじょぶ脳ケア<オンラインアカデミー会員>

有料会員になると、詳細なインタビュー記事や当事者の声、対談動画やセミナー動画を閲覧できます。更に、会員価格でのセミナー受講や様々な特典受けられます!

会員特典の詳細

このセミナー・交流会をシェアする