自助努力以外を知らない IT総合サービス会社経営 粂川さんの場合

 プログラミングを勉強して、30歳前に起業しました。まあ忙しかったですね、ある意味、無理をして病気になったのだと思っています。休みも、なかったわけではないんですが、まあ、朝から晩までほとんど仕事でした。スポーツジムにも行っていましたし、食事にも気をつけていましたが、肥満体型でした。元々血圧が高い家系なんです。高校生の頃から150くらいあって、典型的なメタボですね。おまけに健診が嫌いで、行ってなかったんですよ。40歳を過ぎた頃に、高血圧の薬を医師に勧められて、記録を取り始めました。でも面白いことに、41歳だったかな、血圧が安定しはじめた頃に脳出血で倒れたんですよ。
 倒れたのは、一人で事務所で仕事をしていた時です。仕事の準備をしていたところでした。ピンって音がして、目の前で白い粉がふわ〜っと散ったんです。その後は記憶がありません。次の日の朝、目が覚めたのですが、右半身に力が全然入らないんです。電話をしようと思っても手が届かない。意識は朦朧としつつも、あ、これはまずいってことは分かりました。そうしているうちに、帰宅しない私を探しに、妻が事務所に来たんです。妻は、急に泣き出したんです。私が発する言葉が日本語じゃなかったらしい。後は、妻が救急車を呼んで……という流れです。
 病院に運ばれる最中も「これはまずいぞ、しっかりしろ」と自分に一生懸命問いかけるんですが、もう、後は記憶がまばらです。出血が広がったので、1週間後に手術をしました。そこから2週間ほどは、寝たり起きたりで。それでね、自分がなくなるんじゃないか、ロボットのようになるんじゃないかと、ぼんやり考えていました。なんとか意識を保って「復活したい、がんばるぞ」ってことを目覚めるたびに考えて、そしてまた、眠るという状態でした。
 私の中ではこの時に、会社は終わったと思って、経理を手伝っていた妹に話をしたんです。失語症でしたから言葉が出にくいのですが、これを言うぞと頭の中を整理して、練習をしていました。妹を前にしても、これでいいなと確認してから伝える。
言語聴覚士さんとやったリハビリはあまり覚えてないんですけどね。絵カードみたいなものを言えるようになったら、もう終わりですって感じでした。社長なので、就職の話も出ませんでした。もっと重度の人がいるので、こんなものかな〜って思ってました。
 で、退院しても、当然、社長業なんてできないわけですよ。会社は畳むしかないなと思いましたが、明日から、何をして食っていくのか? ってことからのスタートでした。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

この冊子の取材だけでも、「まだまだ話せないのに、言語聴覚士から『もう終了です』と言われた」という声を、何人の人から聞いただろうか。絵カードができた、ドリルが終わった、簡単な会話ができた(ように見える)。それだけで、目の前の患者さんは退院後の生活では困らないと、本当に思っているのだろうか?
絵カードとは、目の前にあるイラストに描かれている物の名前を言うだけであり、そんなシチュエーション...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

本冊子のヒアリングを始めてから、粂川さんは聞き手の僕自身が最も職業理念上の(なぜその仕事をしてきたのかの)シンパシーを感じた当事者かもしれません。粂川さんの言葉の中で大きく共感したのは「世の中わたしより大変な障害を抱えた方がいるのに、何かを他者に期待していいんですか? という感じ。わたしの悪いところは、自助努力以外を知らないことなんです」の部分です。

粂川さんも「好きなこ...


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インタビュー記事

IT黎明からその身を投じて

 当事者歴10年を迎える粂川さんは、受傷前も現在も経営者。ただし、単に経営者というよりは徹底してフリーランス(雇われない道)を貫く職歴を歩んできました。30年以上の職業人生の中で誰かに雇われていたという時期は、ほんの5年足らずほど。その業種は一貫してIT業界です。

「都市部に出て遊びたいという理由で東京の大学の法学部に入りましたが、元は数学と物理が得意な理系脳なんです。大学在学中もほとんど学校には行かずに塾講師のバイトばかりしていましたが、担当科目は英語から始まって、数学、そして全教科。この頃から誰かにものを教える仕事は好きだったと思います。一浪して入った大学に5年通って、そんな中で今後どうやって働いて生きていこうと思った時に、ビーイング(求人情報誌)の『初めてでもできるプログラマー』という求人が目についたのが、ITとのなれそめでした」

 入った会社は大手通信機器メーカーのОBが作った従業員5人ほどの会社で、オフィスは新宿の地下に老舗ゲイバーが入る雑居ビル。時代はIT萌芽期でありバブル崩壊前夜でもあった一九九〇年、飛び込んだこの会社で指導者もなくほぼ独学でプログラム言語を憶えるところから、粂川さんのエンジニア人生はスタートしました。

「とにかく楽しいと自分自身が思える仕事が好きなんです。プログラマーから始めたこの会社はすぐ外資に買収されましたが、製品開発をするうちに顧客が自分の作ったものをどう使っているか気になりだして、営業畑にも足を踏み出して……。当時はイスラエルでのハードウェア開発をいろいろな会社が競争していて、まだネットも盛んでない時期だったので、実際に現地に行って現地エンジニアから学ぶしかマーケティングの方法がなくて、わたしも現地入りしたんです」

 営業もマーケティングもできるエンジニアであれば引く手あまたなのは言うまでもなく、起業する知人に引き抜かれる形で4年勤めた会社を辞めた粂川さん。けれど粂川さんを含む3人で立ち上げたこの会社は、粂川さんが再びイスラエルにマーケティングで向かっている間に、なんと空中分解してしまったと言います。

「引き抜かれた理由には、自分で自分の稼ぎを上げたいという点もありました。会社にいる限り、それはできませんからね。そして友人と起業した経験から、会社って自分たちでも作れるものなんだという経験をした。会社はなくなっちゃったけど貰った仕事は抱えているままだったし、もう会社勤めは嫌だなと思って、そこから自営のエンジニアとしての活動を開始したんです。29歳でした」

 当時は企業内に自社サーバを設置してネットワーク構築をする需要が高まった時期でしたが、フリーランスのプログラマーはたくさんいる一方で、こうした企業内ネットワークの環境構築ができるフリーの人材はほとんどいなかったという時代。営業は得意ではないけれど技術とフットワークを売りにした粂川さんは、30歳で改めて法人を起業しました。

「起業後の90年代末にかけて、今度は企業内でIT教育の需要がものすごく高まって、もともと人に教えるのが好きだったのもありますし、そちらにシフトすることになりました。自分だけでは回らずに、講師を企業に派遣する業態にも展開し、平均年商で5~7千万円。最高で1億を超えたこともあります。物を売って売り上げを稼ぐ訳でもなく、派遣ビジネスでもなく売り上げがそこまで行ったのは、少し自分を褒めても良いかな? とは思います」

 こうして売り上げを伸ばしていた粂川さんの会社でしたが、企業内教育の需要が徐々に衰退してくるのと同時に襲ってきたのが、あのリーマンショック。粂川さんはご自身以外の社員をすべて外注化して0人まで人員削減したうえで、自身は日中に教育の事業をやりながら、夜は大手企業を相手に流行りはじめだった仮想化技術のシステム構築の仕事にとりくむという、ダブルワークの激務に身を投じます。けれど、ようやく業績が上向きの兆しを見せた東日本大震災直後の真夏、粂川さんは脳出血に倒れてしまったのでした。46歳のことです。

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