私の資料で変わってきた職場 保険会社勤務Aさんの場合

子どもの名前も出てこなかった

長年勤めていた会社では、管理職として働いていました。結構、努力してきたんです。いつもと同じように通勤していたある日、大型のトラックにひかれ、数メートル引きずられました。大きな病院に運ばれ、家族は、意識が戻らないかもしれないと説明されたみたいです。もちろん私は何も覚えていません。脳梗塞も発症、麻痺と失語症、高次脳機能障害が残りました。運ばれた病院では、言語聴覚士の先生から「お名前は?」とか「家族さんはいますか?」などと、簡単なことを聞かれたのですが、その時、言葉が出て来なかったんです。「なんで、なんで?」「こんなに大事な子どもの名前が出て来ないってどういうこと?」って、衝撃でした。注意も散漫になって、何かを考え続けることができないんです。
でも、言語の先生は私が発するたどたどしい言葉や反応をみて「こういうことができるようになりましたね」と仰ってくださったり、物の名前が出てこなくても、「頭の中で、思い出してみて」と、生活の中ででも言葉を探せるようなヒントをくださったりしたんです。そんな感じで、少しずつ言葉を獲得していったんですね。身体の麻痺は徐々に改善して、身の回りのことはようやくできるようになりました。でも、言葉や思考というか「頭」が戻らないんです。リハビリテーション病院で、初めて言語リハビリを受けたときに「意外と、全然、何もできないんですね」と言われたんです。「前の病院から引き継ぎとかはないの?」と驚きました。そのあとは、テキストの問題を解くことしかしてもらえず、なぜできないのか説明のようなものや、こうしたらいいですよというアドバイスのようなものが何もなかったんです。「え? 私、こんなにできないのに? どうしたらいいの?」といつも思っていました。でも、私にとって、言語リハビリ自体が初めてだったから「こんなもの?」みたいな。毎回、簡単なプリントすらできないなんて、悲しくなりました。でも、やるしかないですよね。
退院前も、私は「こんなことでは、仕事は無理だ」と思っているのに、「6か月で終了です」の一言。私としては「これからが一番大事で、今が一番不安」なんですよ。「これからの生活はどうなるの?」って思ってました。なのに、病院としては、もうお役目終了って、絶対におかしいですよね。管理職に戻ることは無理だと分かっても、絶対に仕事に戻りたかったのです。こんな状態で、症状について自分で上司に説明するなんて無理だし、交渉ごとなんてできないですから、不条理を感じながら死に物狂いで仕事をしました。これまでと全く違う仕事でしたが、とにかく必死でした。言葉が不自由なだけで、ばかにしたような態度もとられ、悔しい想いもたくさんしました。でも、「私は悪いことをしたわけではない」と自分に言い聞かせていました。2年前に、親のことで介護休暇を取ったことをきっかけに、自分の障害について学び、今後の働き方について冷静に考えるようになりました。前回のような復職の仕方は嫌だと思って、上司に話をする練習を積み重ね、面談に臨んだんです。今も、すべての問題が解決したわけではないのですが、職場の理解が進んだので、気持ちはずいぶん楽です。気持ちが楽になったことで、できることも増えました。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

 失語症は、脳を損傷したことによって「聞く」「話す」「読む」「書く」そして「計算」が難しくなる障害である。こうした定義は、私たち医療職は当然知っている。しかし、結局、本人は生活の中で、何に困るだろう、家族や知人とのコミュニケーションが難しくなると、一体何に困るのだろうと、本気で考えたことがあるのだろうか。
 SLTA(標準失語症検査)のみで評価をしている言語聴覚士は、ぜひ、考えてほし...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

 Aさんのお仕事の中で抱えたジレンマは、高次脳機能障害が「回復するタイプの脳機能障害」だからこそのものであり、特にキャリア形成後の当事者には大きく共通するものに感じます。

 復職間もない当事者が最も感じるのは「こんなこともできなくなっているんだ」という驚きとジレンマですが、その後なぜできないのか、どのようにすればできるのかといった考察を重ね、仕事に戻る中で、働くことそのも...


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インタビュー記事

復職以外は考えなかった

 新卒で就職してから、三人のお子さんの出産育児を挟みながらも、ずっと同じ大手保険会社で働いてきたAさん。内勤営業を皮切りに、総務、健保や雇用保険関連の手続きから窓口業務、そして本部社員として新入社員の研修資料作りや研修講師等々と、多部署で経験を重ねてきました。ベテランの域に達してからは、近隣支社で人材が不足すれば、出張で応援に飛び回るといった生活をしていた時期もありました。

 事故に遭われたのは、それまで所属していた保険支払い業務からコールセンターの主任に移動し、一年を経過したころのことだったと言います。

「とても多忙な現場だったので、病院で気づいた瞬間にも、『あれとあれとあれの仕事はどうなってる!?』と。緊急の仕事がいくつかあったし、しかも年度替わりのタイミングで役職者がこんなんなるなんて、ごめんなさい~という感情が一番。当然、仕事に戻る気満々でした」

 入院は急性期に一カ月半、リハ病院に六カ月。当初はご家族が「まるで赤ちゃんのようだった」「言っていることを当てるのがクイズ状態」と後に言うような失語症状で、大事に考えてつけたはずのお子さんの名前がすぐに出てこないといった経験もされましたが、リハビリ生活の中、ご自身の中では徐々に「自分の中では、今の会社しかない」と、元いた職場への復職を強く望まれるようになったそうです。

 「周りの人には、そこまでして働く必要はないんじゃない? と言われたし、最初はなんとなく、イメージ的に会社辞めてもスーパーとかでパートみたいにして働けばいいやという気持ちがあった。けど、なかなかうまく話せるようにならないし、その状態だと逆に他の職場では気楽に働けるところがないんじゃないかという気持ちになって。それで、自分がやってきた経験を評価してくれる会社に戻る方が、自分はまだ社会と関わっていられるのかなと思った。ただ、病前の仕事は厳しいかな、さすがに管理職は難しいだろうから、書類を扱うような仕事ならなんとかできるんじゃないかなと思っていたんです」

 保険業界と言えば、まず思い浮かぶのはまず女性の従業員比率が多く働きやすいと言われていること。そして、他の業界に比べても障害理解は格段に進んでいそうな印象。では実際、Aさんの復職経緯はどんなものになったのでしょうか。

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